この表紙はどうなのか
ワタクシは小説を読むのが好きだが、表紙のデザインも気になるタイプだ。
あきらかに作品のイメージに合っていないものや、「私の個性を出しました」的な表紙はどうにも苦手である。
この表紙はどうなのか
たとえば、これなんかはかなり強烈だ。
子供向けではあるが、いや、これは違うだろう・・・という話である。
作品のイメージよりも、自分の個性を出すほうにいってしまった感じだ。
これも厳しいデザインだ。
何、これ?という感じである。
こういういかにも「デザインしました!」みたいなのは、本当に苦手である。
嵐が丘
ワタクシは、作品のイメージに合っている表紙や、想像の余地があるものが好きだ。
たとえば、嵐が丘(田中西二郎・訳)の表紙は、かなり好きなデザインだ。この場所自体の雰囲気にも、作品全体のテーマにもうまくはまっているように思う。
一方、光文社のほうをみてみると・・・
何これ、意味わかんねえよ!である。
こういう顔を描きたいだけじゃないのか?という感じである。
ある登場人物をイメージしているのかもしれないが、作品を読んでいたら、こんな表情にはならないだろう。
他の「嵐が丘」もみてみよう。
訳に大きな問題があると言われている鴻巣版であるが、これも作品に出てきそうなイメージである。読み終わったあとは、この表紙から感じるものも多いように思う。
続いて、岩波文庫である。
こちらも素晴らしい表紙だ。
「余計なことをしない、作品のイメージを正しく伝える」これだけでいいじゃないかと思わせてくれるデザインだ。
ますむら・ひろし先生
作品にイメージといえば、ますむら・ひろし先生の「銀河鉄道の夜」がある。
ジョバンニやカムパネルラほか、人物がみんななぜかねこなのだが、ワタクシはこれほどまでに作品のイメージに合ったデザインを見たことがない。
そこにはあるのは、まさに銀河鉄道の夜、まさに宮沢賢治の世界のように思う。
こちらもすごい作品だ。ブルカニロ博士篇もたのしめる。興味のある人はぜひ読んでみてほしい。
まとめ
今回は、小説に表紙についてワタクシが思うことを書いてみた。まあ、なんだ、ヘンな自己主張は勘弁ということですな。