巻末の解説について思ったこと
アガサ・クリスティー「パディントン発4時50分」を読んだ。
この作品も実に面白かったのだが、巻末の解説を読んで後悔した。・・・こりゃあ、なんなんだ?
安い言葉満載、解説になっていない解説
アガサ・クリスティーのことを「アガサおばあちゃま」「女王様」、ある登場人物のことを「一家にひとり常備したい」、文章のラストが「マジに思ってしまったのでした」
。
文章は、常体と敬体が意味不明にまじりあい、突然、ひとりごとや話し言葉が入ったりする。
・・・・・・この解説文を書いている人は「書評家」らしいが、今まで一体何を読んできたんだという話である。
ちなみに「解説らしき部分」すらほとんどない。ほぼ自分語りとあらすじと、本編で説明されていることをもう一度書いているだけという。これは本当にひどい。
ふつうに「解説をする」だけでいいのに
こうしたものに触れるたびにいつも思う。個性を出したい、味を出したいのかもしれない、だけどそれをやるのは「ふつうに解説」をしてからの話だ。
古い作品であればなおさらだ。
その本が書かれた時代背景、本編の中に出てくるキーワードを掘り下げるのだっていい。そういったものを「知ること自体」が面白いのだ。別に「あんたというキャラクターを面白がりたいわけではない」のだ。
この解説に限らないが・・・
この解説文だけに限らないだろう、昨今は様々なジャンルで「自分をアピールしすぎ」と感じることが多い。
そういったものを持てはやす風潮があるからこそともいえるが、ワタクシはいつも思う。
なんでもバラエティにしなければ気がすまないのか。派手さはないけれどきちんとしたものを「見る目」や「見たい人」を失っていっていいものなのか。
悲しい話だが、もう手遅れかもしれないと思うことがある。
パディントン発4時50分 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)
- 作者: アガサクリスティー,Agatha Christie,松下祥子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2003/10/01
- メディア: 文庫
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