小説の水増し・引っ張りについて 2
前回の記事のつづきである。小説に何を求めるか―それによって、水増し・引っ張りのとらえ方は変わるだろう。
先日読んだ本に逢坂剛氏の「のすりの巣」がある。「のすり」は漢字で書くと、環境によって変換できないことがあるようで、ネット上ではひらがない表記されることが多い。
表紙では漢字になっているが、ネット書店でも「のすりの巣」と表記されることが多い。
さて、この小説、それなりに面白いのだが、逢坂剛氏の小説を読んでいる人ほど「?」と感じる部分があるのではないだろうか。
それは「あれ、このパターン、どっかであったんじゃね?」という点である。外面は変えているものの、骨組み自体はほぼ同じという作品が氏の本にあることに気づくはずだ。
あらたな人物(や事象)を足せば厚い本ができる、というわけだ。
そこで、シリーズを重ねた「墓標なき街」である。のすりで嫌な予感を感じていたが、こちらはずいぶんと厳しい内容になってしまった。
薀蓄、同じような話の繰り返しが多く、もろに水増し・引っ張りが目立つ作品になってしまっている。
悪いとは言わないが
こうした方法は、おそらく量産するためのテクニックなのだろう。だが、あまりにそれが見えすぎてしまってもどうなんだと思うのが、読者である。
昨今は、長い文章が読めない読者が増えたという話を聞く。頻繁に場面を変えないと飽きられる、会話のほうが読んでくれる―そういう傾向もあるのだろう。
それらが重なって出来上がったものが「薄いもの」であれば、「合わせる層が違うのではないか」というのが、ワタクシの思うところである。