読みやすさのために捨てたものは、本当にいらないものなのだろうか
前回の記事のつづきである。
白衣の女を読み始めて思ったのは、わかりやすいだけの本に慣れてしまうと、ちゃんと本を読めなくなってしまうのではないかということだった。
昨今の日本の小説は、わかりやすさ第一ですらすらと読めるものが多い。
「そのほうが読みやすい」というのは確かなのかもしれないが、そのために捨てたものは本当にいらないものなのだろうかという話である。
ワタクシは、根気がいる部分や、考えながら読むといった部分は、本当に捨ててしまっていい部分なのだろうか。
新訳について思うこと
たとえば、光文社古典新訳文庫というものがある。これは、読みやすいように訳を新しくしました!というシリーズだが、何かと物議を醸しているシリーズでもある。
守るべきは「作品」のテイストのはずだが、どうもこのシリーズは違う方向を向いているように思えてならない。
わかりやすくしようとするあまり、作品のテイストを変えてしまうのはいかがなものだろうか。それにしても、ひどい表紙ですなあ。
嵐が丘の新訳版も、何かと問題の多い1冊だ。訳以前に、日本語が怪しいのはいかがなものかという話である。
ワタクシは読み比べたりするのも好きなので1読者としてはいいのだが、古典作品を違った形で後世に伝えるのはどうだろうかと思う。
無理に新訳にせずとも、字の大きさやレイアウトを見直すだけでも十分にいけると思うのだが・・・。
まあ、どうでもいい話だが、「超訳ニーチェの言葉」とかいうクソ本がありましたなあ。「超訳」って言葉、禁止にすればいいのに。
わかりやすくないものも必要
ワタクシは本を読むのが好きである。だが、そこまで何でもかんでも分かりやすくする必要があるのか?と思う。
読書でいえば、たとえば難しいものを調べながら読むってのだって大きな経験だと思うし、文章を味わう、解釈するってのだって大事なことだと思うのだ。
どうでもいいけど「1分間~」とかアホを量産するだけだろ・・・とか思ってしまう。惜しんではいけないところの手間を惜しむとか、ワタクシにはちょっと理解できんなあ。