talkingdoll

カメラとへんてこなものを愛するフリーランス。カメラ、映画、へんてこなどのネタをつぶやきます。

それは手帳術なのか?

それにしても、最近は手帳の位置づけがずいぶんと変わってしまったように思う。

絵日記と落書き帳とのボーダーラインがないのはいかがなものだろうか。ワタクシは自分の使い方が決まっているのでいいのだが、大マジメに手帳の使い方を考えたい人は大変だろうなあと思うことがある。

それは手帳術なのか?

最近は、ボールペンイラストとか絵日記とか落書き帳みたいのまで「手帳術」とか言ったりしてるもんなあ。手帳の使い方が多様化しているのはわかるが、だからこそごちゃまぜにするなよと思う。

それが顕著なのが書籍だ。今は本が売れない時代なのはそうかもしれないが、こういう時こそ硬派だったり、きちんとした本を出してほしいとワタクシは思う。

手帳の本で言えば、「手帳術」を知りたくて本を買ったのに、何十ページも絵日記とか落書き帳みたいなのが載っていたら、たまったものではない。見たいのはそれじゃねえよ!という話である。

スポーツなんかでもそうだが、「スポーツを見たくてスポーツを見る」のだ。有名人ゲストやお涙頂戴ヒストリーがメインではない。

女子マラソンの中継ではよくあるよね、マラソンの優勝争いよりも「日本人トップ」とかそんなことばっかりやってる。根本的なところ、「マラソンを見たくてマラソンを見る」がどこかへいっちゃっているのだ。

昨今は、数字にとらわれて、そのものの「根本」をないがしろにしているものが多いような気がする。いろんなフックを入れるのはいいが、こんなふうではそりゃあ下がっていくだろうという話である。

 これはステキな本だ。「みやすのんき」先生と言えば、そう、あの「やるっきゃ騎士」のみやすのんき先生だ。

何を広げていくのか

たとえば色鉛筆でも、昨今のやたら細かい塗り絵を完成させるのを「技法」「術」とか思われると非常におかしなことになる。

本来はああいうものを出したら、今度は専門的なほうもより展開していくのが文化を広げる形だと思うが、最近は色鉛筆に限らないが、専門のほうを広げずに、色鉛筆であれば塗り絵のほうを広げようとするんだよな。だから、いびつな広がり方をしていく。

「そのほうが売れるから」でやっているのだろうが、これで十分な売り上げが出ても、専門のほうではなく、さらに塗り絵を売ろうとするだろう。

なんというか、これも「ガラパゴスか?」という言葉が頭に浮かんでしまう。

doll3.hateblo.jp

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