talkingdoll

カメラとへんてこなものを愛するフリーランス。カメラ、映画、へんてこなどのネタをつぶやきます。

「妄信 相模原障害者殺傷事件」を読んだ。

「妄信 相模原障害者殺傷事件」を読んだ。

妄信 相模原障害者殺傷事件

2016年に起きた平成最悪ともいわれる殺傷事件をテーマにした本である。

構成に難がある1冊

読み終わった感想は「この本は何を言いたいのだろう」ということだった。朝日新聞での連載や記事をもとに加筆・再構成したそうだが、内容がてんでばらばらだ。

事件を検証したいのか、社会について語りたいのか、現在を伝えたいのか、匿名(実名)報道について追いかけていきたいのか、軸がブレブレでどうにもちぐはぐな内容だ。

取材や記録に関しても浅く、同じことを何度も繰り返したり、どうにも水増し感が強い印象だ。1回ごとの記事ではなく1冊の本として出すのであれば、いかがなものかと考えてしまうところである。

記者の「感想文」はいらない

特に残念だったのは、コラムと称した記者の「感想文」である。どうにも稚拙で「苦労しています」的な書き方が多いのは非常に気になった。

たとえば、

被害者の氏名を県警が発表しなかったことで、なかなか関係者にたどりつけなかった

という文章には「おいおい」と思ってしまった。「なぜ名前を出さなかったのか」じゃなくて、「県警のせい」かよ!

また、

「匿名発表だと、被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようという記者の試みが難しくなります」。同僚記者がツイッターでつぶやくと、否定的な反応が殺到した。「人の不幸を食い物にするな」「そんなことをしなくても事件の重大性は伝わる」。どう答えたらいいのか、悩みながら取材を続けた。

というくだりにも「・・・・・・」であった。

そもそも、その同僚記者は「誰に対してつぶやいているんだ」とも思うし、答えられないんなら、何のための取材なんだよとも思う。

だいたい、これも「いちいちそんなことを書くか?」という話でもある。

自己弁護したい気持ちは誰でもあると思うが、少なくともこのテーマの本に関しては「お前らの苦労を知りたいわけじゃねえよ」という話である。

本という形

この本に関しては残念でならない。「きちんと伝えること」に徹するべきだったのではと思う。

「新聞」に何を求めるかは人それぞれだと思うが、ワタクシ的には「加筆・再構成されてこれなのか・・・」「書くべきこととそうでないことの区別がついていないのではないか」と非常に残念な気持ちになった。

本という形になることに意味がある―という人もいるかもしれないが、そうであればなおさら、「きちんとした本に仕上げてほしかった」というのが正直なところである。

 

妄信 相模原障害者殺傷事件

妄信 相模原障害者殺傷事件

 

 

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