talkingdoll

カメラとへんてこなものを愛するフリーランス。カメラ、映画、へんてこなどのネタをつぶやきます。

わかりやすい本だけでいいのだろうか

先日読んだ「白衣の女」が大変に面白く、数日たっても、まだ興奮しっぱなしだ。

白衣の女 (上) (岩波文庫)

白衣の女 (上) (岩波文庫)

 

 途中からページをめくる手が止まらなるぐらいに面白かったが、最初から最後まですらすら読めたかというと、実はそうではない。

最初のほうで、つまずきそうになったのである。

原因

というのも、「白衣の女」を読む前に、いくつかの日本の小説を読んでいたからである。

今の日本の小説は、一文が短く、コンスタントに段落を変えるものが多い。そのため、非常に見やすいし、読みやすい。ほどよい余白がいい感じのリズムを運んでくれる。

だが、そうしたスタイルになれてしまうと、1ページに字がぎちぎちに詰まったようなものが、やたらと重苦しく感じてしまうのだ。

また、昨今は、行間を読ませるといったことや、1文に含みをもたせるといったつくりよりも、「わかりやすさ」を優先させるようになっているように思う。

容疑者Xの献身 (文春文庫)

東野圭吾氏の本は、今も昔も変わらずに非常に読みやすい。だが、読み終わった後に残るものが少ないという声もある。

本に何を求めるかは人それぞれなので、このあたりのさじ加減は難しいところだろうが、娯楽小説としては正しい方向のように思う。

転迷: 隠蔽捜査4 (新潮文庫)

今野敏氏の本も分かりやすいが、いくつか読んでみると、パターンにはめて書いている感が露骨にみえてきてしまうのが残念なところだ(東野圭吾氏もその傾向があるといわれるが、そこまで露骨ではないように思う)

それは隠蔽捜査シリーズを一気に読んでみると、すごくわかる。骨組みは一緒で、外観だけを変えているようなつくりだ。

おっと、話が少しそれてしまったようだ。次回につづく。

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