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カメラとへんてこなものを愛するフリーランス。カメラ、映画、へんてこなどのネタをつぶやきます。

これはひどい・・・。守屋淳「最高の戦略教科書 孫子」

守屋淳「最高の戦略教科書 孫子」を読んだ。なんとなく手にとってみたのだが、これはひどい・・・

最高の戦略教科書 孫子

めちゃくちゃな1冊

「最高の戦略教科書 孫子」は2014年発売の本だが、まったく持ってひどい1冊だ。

第一部では、孫子の言葉を解説していくのだが、解釈の仕方がとにかくめちゃくちゃなのである。

「この文を読んで、普通そういう意味にとるか?」ということばかりなのだ。そこから持論につなげていくのだが、そのつなぎ方も取り上げる例もめちゃくちゃ。

文章だけでなく、物事のとらえ方もおかしいのである。

ワタクシは読んでいて、背筋が凍りつきそうになった。作者の思考回路が全く理解できないのである。

最高の戦略教科書 孫子

最高の戦略教科書 孫子

 

この作者は守屋「淳」だが、孫子本は守屋「洋」も書いているので注意が必要だ。ちなみに、守屋洋父親である。

孫子の兵法 (知的生きかた文庫)

孫子の兵法 (知的生きかた文庫)

 

なぜ余計なことをするのか

これで「孫子」を知った気になる人もいるかと思うと、怖いものがある。

ワタクシは常々思うのだが、だますような売り方、売ったもん勝ちなやり方ってどうなんだろうなあ。

ビジネス書界隈はもともと、そういったろくでもないやり方で成り立っているのだろうが、それにしても・・・ろくでもないですなあ(笑)。

とりあえずこの本については、「ちゃんと解釈できないんなら、普通に解説しとけよ・・・」という話である。

普通に伝える、きちんと伝える

この本に限らず、昨今は「普通に伝える、きちんと伝える」がどうもないがしろにされている感があるように思う。

伝える場面では「伝えるのが一番の仕事」なのである。自己主張や目立ちたがり屋大会をする場面ではないのだ。

超訳~」もクソ本だが、この本はまた違った方向のやばさがある。

雑誌読み放題サービス

なんとなく捨てられなかった雑誌が、Kindle unlimitedにあった。おお、これはチャンスだ。

ラインナップが変わった際に消える可能性もあるが、たまにしか見ない本だし、これを機に一気に捨ててしまってもいいかもしれない。

電子化しようと思っていた

その雑誌はけっこうな冊数があるので、いずれ電子化しようと思っていたものだ。

必要十分生活~少ないモノで気分爽快に生きるコツ~

そう思うようになったきっかけは「必要十分生活」という本だ。この本で紹介されていた知ったブックスキャンを使おうと思っていたのだ。

www.bookscan.co.jp

雑誌読み放題サービス

ワタクシは雑誌読み放題サービスが気に入っている。

特に、古い雑誌が読めることに価値を感じている。書店に並んでいる時に気づかなかった雑誌や、買い逃してしまった雑誌に出会えるのは本当にいいと思う。

そんなわけで、ちょこちょこと雑誌読み放題サービスのラインナップをのぞいているのだが、あらためてみると、面白そうな雑誌って多いよね。

古い雑誌

雑誌という形態が厳しい時代ではあると思うが、古い雑誌を生かす方法がもっとあるといいよね、とふと思った。

『ユニクロ帝国の光と影』著者の渾身レポート ユニクロ潜入一年【文春e-Books】

先日紹介した「ユニクロ潜入一年」は、雑誌の記事を再編集して電子書籍にしたものだ。

レイアウトもけっこうアバウトで、個人が作ったKindle本みたいな感じだが、こういった方法もアリかもしれない。

アナウンサーや解説は、応援ではなくちゃんと伝えてくれ

前回のつづきである。これはプロ野球だけではないが、ワタクシがスポーツ中継をみていて不満に感じることがある。それはアナウンサーと解説者だ。

応援ではなくちゃんと伝えてくれ

目立ちたいのかなんなのか知らないが、アナウンサーはきちんと状況を伝えて、解説者はちゃんと解説してくれと心の底から思う。

ワタクシの住んでいる地域のプロ野球中継は、テレビもラジオもまったくもって酷いものである。

まずアナウンサーが相手チームのことをほとんど話さない。常に地元のチームの話ばかりである。

それも、おべんちゃらと、選手のどうでもいい話ばかりで、「なんなんだこれは」と思ってしまう。

ラジオなんか、ストライク・ボールとしか言わないことも多い上に、カウントすら言わないこともあるんだぜ。

さらには、地元チームのおべんちゃらを重ねている間に、相手チームのアウトカウントが増えている、なんてこともよくある。

解説者

解説者も強烈だ。

アナウンサーに「このピッチャーの持ち玉はなんですか?」とか「この選手、最近の成績はどうなんですか?」とか聞くんだぜ。

当然、アナウンサーもサッと答えられないわけだが、 なんか意味わからないよな。

相手があってのスポーツ

ワタクシはスポーツは世界を知るたのしさ、相手のことを知る面白さもあると思う。

マラソンなんかだと露骨だが、煽るだけ煽っておいて、日本人が上位に入らなければろくに話題にもしないのかよ!というのが、多いよなあと思う。

すごい選手から学ぶ、世界から学ぶ、広い世界を知るのって重要なことじゃないのか?と思う。

それを知れば、挑むことにもドラマが生まれるわけでさ。

少なくとも、ワタクシは「ひいきのチームはすごいねー」っていうおべんちゃら放送&報道はまったく見たくない。

まあ、だからほとんど見なくなってしまったわけだが。

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし

前回のつづきである。「野村の遺言」を読んでワタクシがプロ野球に思ったことだ。

野村の遺言

野村の遺言

 

 ワタクシは、今ではまったく見なくなってしまったが、以前はプロ野球の熱狂的ファンだった。

勝負にこだわるファンも多いと思うが、ワタクシはひいきのチームが負けている試合を見るのも好きだった。

そりゃあ確かに悔しいけれど、なぜ負けているのか、なぜ相手が上回っているのか、ここからどういう展開になるのかを考えながらみるのが、好きだったのだ。

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし

ノムさんがよく使う言葉に「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というものがある。もとは剣術書からの言葉だが、ノムさんといえばこれ!というぐらいに浸透したフレーズだ。

 ワタクシはこの言葉が好きで、試合を見終わるたびに自分なりに分析してたのしんでいたものだ。

一球の重み

だが、ある時期から、以前だったら「勝負をわけるプレー」になったものが、そうでなくなってきたことに気づいた。

「相手が致命的なミスをしたらそこを攻める」のではなく、「相手の致命的なミスに、こっちも致命的なミスを犯してイーブンになった」みたいなシーンがやたらと気になるようになったのだ。

一体、一試合でいくつのミスをしあうんだよ・・・みたいな。「このチームには隙を見せたら絶対に勝てない」なんてのがあまり感じられなくなってしまったのだ。

負けてもなんとかなる・・・のか?

「負けられない」じゃなくて「負けてもなんとかなる」、プロ野球をみていると、そんなことを感じるようになってしまった。

レギュラーシーズンを優勝しても、クライマックスシリーズで勝ち上がってきたほうがすごいようにみえてしまう。

そのチームが日本シリーズで負けても、「まあ、もともと○位だしね」と思えてしまう。

アストロ球団 (第1巻)

 アストロ球団という漫画がある。「1試合完全燃焼」をフレーズに超人たちが命を削ってプレーする。ツッコミどころも多いが、このすさまじさ、この熱さは魂がふるえるぞ。

次回につづく。

野村克也「野村の遺言」

野村の遺言」を読んだ。野村克也氏の本である。

野村の遺言

野村の遺言

タイトルを見た時は「ノムさんに何かあったのか?」と思ってしまったが、そんなことはちっともなく、中身はいつものノムさんである。

野村克也氏が、今のプロ野球に言いたいことを書いた本だ。面白いですよ、これ。

野村の遺言

野村の遺言

 

プロ野球

ワタクシは以前はプロ野球をよく見ていた(というより熱狂的なファンだった)が、最近はまったく見なくなってしまった。

ファンの方には申し訳ないが、ぶっちゃけた話、ムダに長いと感じるようになってしまったのだ。

プロ野球の後に高校野球のテンポを見ると驚く。テンポが速いからといって、そこに間や駆け引きがないわけではない。

プロ野球の「間」ってなんなんだろうと思っていた。

今のプロ野球は間を生かしていない

そこでノムさん本である。

「野村の遺言」では、「今のプロ野球は間をまったく活かしていない」からはじまり、一球ごとに生じる間(ま)の重要性をこれでもかというぐらいに説いている。

ノムさんがいつも言っていること(本で書いていること)でもあるが、ワタクシはあらためて、そうだ、これなんだよなあと思った。

間がただの時間になってしまっているんだ、たぶん。だから、面白いと感じなくなったんだろう。

間のこと

間というのは難しい。

たとえば、好きな選手やかっこいい選手がいれば、みているだけでもたのしいだろう。だからすぐに投げたり打ったりしなくても、見る側にとっての間はそれで埋まっている。

だが、そうでない選手の場合は、何かがないと見る側にとっては間が持たない。ファン側の勝手な理屈ではあるが、ワタクシはこれってかなり大きいと思うのだ。

その間に何を見たいのか。ワタクシは意地や執念、一生懸命さ・・・それらが見えれば、その選手をもっと見たい、応援したいと思う。

だが、何も伝わってこない場面がずーっと続くと「どうなんだ、これ」と思ってしまう。

次回につづく。

キャンパスノートのA6サイズ

お題「お気に入りの文房具」

 

最近のワタクシのお気に入りは、キャンパスノートのA6サイズである。

コクヨ キャンパスノート A6(ドット罫) B罫×10冊

105×148mmというコンパクトさが気に入っている。

使い方

いつも机の上において、Todoリスト兼メモ帳として使っている。

見開き2ページを1日分として、左にその日のTodoを書き、右はフリー欄としている。

Todoリストにはチェック欄をつくり、できたらチェックを入れる。その日にできなかったことは別の日のTodoリストに入れる。

で、クリアしたら新しく書いたほうと古いほうの両方にチェックを入れる。

つまり、ノートが終わる頃に、すべてのチェック欄にチェックが入っていればやりたいことがすべてクリアできたということだ。

1日2ページが自由に使える

このスタイルであれば、1日2ページを自由に使えるわけである。フリー欄はメモでも日記でもアイデアでもなんでも書ける。

また、手帳ではなく、ごくありふれたノートなので気楽に使えるのもいい。「キレイに書かなきゃ」って意識もナシでいけるので、非常に使い勝手がいい。

これでもニヤニヤできる

手帳の場合、見直してニヤニヤするというたのしみがあるが、キャンパスノートでも十分にできる。

こういうのはガワの問題じゃなくて、自分が何を考えて、何をしてきたかの記録だからね。

ドット罫のものを使っている

基本的に開きっぱなしなので、ワタクシの場合は、表紙のデザインはあまり気にしていない。

だが、書きやすいかどうかは大きなポイントだ。いろいろ使ってみたところ、ワタクシの場合は、ドット罫のB罫がいちばんしっくり来た。

行間、余白部分がちょうどいい感じで気に入っている。

 

 

読みやすさのために捨てたものは、本当にいらないものなのだろうか

 前回の記事のつづきである。

白衣の女を読み始めて思ったのは、わかりやすいだけの本に慣れてしまうと、ちゃんと本を読めなくなってしまうのではないかということだった。

昨今の日本の小説は、わかりやすさ第一ですらすらと読めるものが多い。

「そのほうが読みやすい」というのは確かなのかもしれないが、そのために捨てたものは本当にいらないものなのだろうかという話である。

ワタクシは、根気がいる部分や、考えながら読むといった部分は、本当に捨ててしまっていい部分なのだろうか。

新訳について思うこと

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

 たとえば、光文社古典新訳文庫というものがある。これは、読みやすいように訳を新しくしました!というシリーズだが、何かと物議を醸しているシリーズでもある。

地下室の手記 (光文社古典新訳文庫)

守るべきは「作品」のテイストのはずだが、どうもこのシリーズは違う方向を向いているように思えてならない。

わかりやすくしようとするあまり、作品のテイストを変えてしまうのはいかがなものだろうか。それにしても、ひどい表紙ですなあ。

嵐が丘 (新潮文庫)

嵐が丘の新訳版も、何かと問題の多い1冊だ。訳以前に、日本語が怪しいのはいかがなものかという話である。

ワタクシは読み比べたりするのも好きなので1読者としてはいいのだが、古典作品を違った形で後世に伝えるのはどうだろうかと思う。

無理に新訳にせずとも、字の大きさやレイアウトを見直すだけでも十分にいけると思うのだが・・・。

超訳 ニーチェの言葉

まあ、どうでもいい話だが、「超訳ニーチェの言葉」とかいうクソ本がありましたなあ。「超訳」って言葉、禁止にすればいいのに。

わかりやすくないものも必要

ワタクシは本を読むのが好きである。だが、そこまで何でもかんでも分かりやすくする必要があるのか?と思う。

読書でいえば、たとえば難しいものを調べながら読むってのだって大きな経験だと思うし、文章を味わう、解釈するってのだって大事なことだと思うのだ。

どうでもいいけど「1分間~」とかアホを量産するだけだろ・・・とか思ってしまう。惜しんではいけないところの手間を惜しむとか、ワタクシにはちょっと理解できんなあ。

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